ガラスモザイクに関する様々な事を綴り、紹介するブログ


by mosaiquedodeca
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カテゴリ:フランス留学時代( 6 )


 何十年振りかで再会したコタニさんが近所に引っ越して来てしてから、時々遊びに行っているのですが、会えばやはり昔の話になります。私は語学学校のあったブザンソンには6ヶ月居てその後南フランスのアヴィニョンの美術学校に1年間行きました。そしてパリに上って装飾美術学校に5年間通いました。大使館に努めていたコタニさんとはブザンソンの6ヶ月とパリの5年間に交流がありました。しょっちゅうお会いしていた訳ではありませんが、たまにお宅にお邪魔したりしました。正月に紅白歌合戦を見せて頂いた事もあります。(VTRかなにかだったと思います)フランスで見た紅白歌合戦は何だか妙な感じがしました。NHKのお行儀の良いユーモアがちっとも笑えなくて、むしろその感覚のギャップが面白くて笑えました。まじめな場面が可笑しかったり、笑うところでシラケたりという具合です。


 昔の事で思い出したことがあります。それは美術学校の長い夏休み中(6月の中旬から10月くらいまで)のことです。当時コタニ夫人N代さんはパリの日本人学校の教師をしていらしたのですが、彼女から夏休みの林間学校のアルバイトをしないかと誘われたことがありました。フランスは中部のサヴォア地方の小さな町で日本人の子供達のお世話でした。お世話と言ってもベテランの先生達が何人もいるので学生だった私は大したことはしなくて良かったです。でも学校なので何か学科の授業をしなければなりませんでした。国語とか社会の授業はとても出来ないので、数学が得意だった私は算数の授業をやりました。小学校3年生にドリルとかをやらせて見てあげました。小3くらいまでなら私でも何とかなりました。メビウスの環を作らせてそれを縦に半分に切ったら鎖が出来たとか、そういうちょっと面白い実習なども交えるなど、いろいろ工夫して飽きさせないようにやりました。
 この日本人学校には、商社に務めている人とかフランスに赴任されている人達のご子息がいました。高名な美術評論家のお子さんもいました。私のクラスのやんちゃな男の子でした。「T 君のお父さんは T・S って言うの?」と聞いたら「うん」と言います。そしたら隣りにいた中学生の男子に「先生、 何聞いているの?」ってニヤけた顔で言われました。私が美術学校の学生だという事を知っていて、取り入ろうとしているんじゃないかと思ったみたいです。ませた子です。この子にはフランス語の発音を直されたりもしました。人差し指を立てて横に振って、 “違うよ先生” てな具合に。しゃくに触りましたが、子供は体でフランス語を覚えるので、発音、イントネーションなどフランス人とまったく変わらなくなります。かないませんね。
 泊まった施設には卓球台があって夜は子供達とビンポンをして遊びました。その中にカリナちゃんという子がいました。彼女はちょっと面長で鼻筋が通った、なかなかの美人です。11歳でしたが、大人っぽい感じの静かで上品な子でした。校長夫人から、アジアの某国の元大統領のお子さんだと聞かされました。お母さんが日本人でナントカという有名な方らしいです。大統領夫人か・・・。“一緒にいるあの上品なおばさんがその方なのか?” って思っていました。それにしてはちょっとお年寄り過ぎたのですが、当時の私は若造なのでそのあたりの事には気がつきません。
 ところがある日のことです。昼休みに、校長夫人から「オグロ先生、ご父兄の方が見えてますからお茶をご一緒にどうぞ」って言われました。それまでそんな事は一度も無かったので何だろうと思って行ってみると、先生方と何人かのお母さんが集まっていらっしゃいました。その中にお一人オーラを発している方がいらっしゃいます。この人は何だろう? 明らかに他の方達と違いました。少し派手目の服装で、しっかりお化粧をしていらっしゃいました。しかし、そういう外見上の事では無く、他の方達とは全く違う雰囲気がしました。低めの声が、太くて良く通ります。その声には生命力の強さを感じました。一言で言うと、 “迫力のある方” だったのです。何か子供の躾の話などをしていらっしゃいました。施設には洗濯機があって、汚れた衣類を女の先生が洗濯してくれるのですが、「女の子は下着は出さないで、自分で手洗いすべきだと私は思いますわ!」とその方が仰って、他の方は相づちを打ったりして、拝聴しているという感じでした。そんな会話に若造の私が加わることはないのですが、疑問が湧いてしまって、言わなくても良いひと言を発してしまいました。この林間学校には5歳くらいの小ちゃなお子さんから参加しています。自分で洗えと言ったっていったい幾つ位のお子さんの話をしているのだろうか? と余計なことを考えてしまったのです。

 私はその方に「どちらのお母さんですか?」とお伺いしました。その瞬間、場がシーンと静まり返りました。 “えっ、なに? どうしたの?” 一刻間を置いて、彼女は落ち着いた声でゆっくりとお答えになりました。 「カリナです」。

 え?、この人が大統領夫人?。私は少し動揺しましたが、出来るだけ平静を装って「カリナちゃんくらいのお子さんならそうですね」と言いました。その後は、 “幾つ位からそうすべきか?” という会話に移っていきました。3〜4年生くらいからという結論だったように思います。

 その日の放課後たまたま一人で屋上にいたら、その御婦人が登っていらっしゃって、声を掛けられました。なんでも、皆と一緒に遠足に出掛けたカリナちゃんが帰って来ないが、自分はもう行かなくてはいけないとのこと。「いつ頃戻るんでしょうか?」と聞かれましたが、私に分かる訳がありません。焦れた彼女が私に「あなた、運転できます?」と、車で迎えに行きたいという旨を言われましたが、残念ながら免許がありません。申し訳ないと思いましたが私にはどうすることも出来ませんでした。 彼女はお茶会の時とはちょっと雰囲気が違いました。割合に気さくに声を掛けて下さいました。多分、自分のことを知らない人間なので、構える必要がなく、話しやすかったのだろうと思います。彼女にしてみれば、私は気を遣う必要など全く無い唯の世間知らずな若造ですから。

 しかし、私の言葉で回りの空気が凍り付いたときの光景は、今思い出すと結構可笑しいです。皆んな唖然としていました。校長夫人は焦ったのではないでしょうか? あの後、彼女がなんて答えるか気がかりだった筈です。 え? その御婦人は誰かって? 勿論あの方ですよ。 テレビにもよくご出演なさっているD夫人です。インドネシアの元大統領夫人です。実は後で分かったことですが、私の遠い親戚に当たる方でした。ご縁があったようですね。親戚の法事の席で彼女の親族の方にお会いしたことがあったのですが、この話をして「でも、多分憶えていらっしゃらないでしょうけど」と言ったら、「否、彼女は憶えているわよ。そういうことは忘れないと思うわ」と言われました。その後全く接点はありませんが、果たして憶えていらっしゃるだろうか?
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by mosaiquedodeca | 2011-04-01 19:30 | フランス留学時代 | Comments(0)

印象に残ったある出来事

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 ちょっと古い話になりますが、11月の3連休に実家に帰って来ました。姪っ子の結婚式があったからです。結婚祝いに紅白の薔薇をモチーフにしたガラスモザイクの写真立てを送りました。(上の写真:これはガラスモザイク展に展示した時の写真)当日の朝早く新幹線で向かったのですが、式の30分前に駅に着き、殆ど走って式場に到着という慌ただしさでした。急いで受付を済ませたのでもう少しで見逃すところでしたが、受付にちゃんと飾ってありました。文字通り、式に “花を添える” ことが出来て良かったです。


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        制作途中の写真。仕上がりはこれに目地が入ります。


 式後少し時間に余裕を持って帰りの切符を買っていたので、実家で催された宴会にもちょっとだけ参加しました。その間僅か1時間位だったと思うのですが、その時に思わぬ昔の話が聞けました。

 私は若い頃フランスに留学し、パリの国立高等装飾美術学校(通称アールデコ)を卒業したのですが、その卒業論文の題名が「顔・二元的表現」というものでした。古今東西の色んな美術作品に於ける “顔” の表現について私なりに研究したことをまとめました。西洋の美術作品にも触れましたが、主に取り上げたのは、仏教彫刻、浮世絵そして能面の表情表現についてでした。それらの表情の分析に入る前に、人間の複雑な感情について述べるのに私が例に出したのが、姪のM(今回結婚した姪の従姉)の不可思議な微笑みについてでした。
 それは実家での出来事でした。Mは姉の娘で当時2歳位だったと思います。叔父である兄がMにいわゆる “高い!高い!” をしてあげました。Mはけらけら笑ってすごく楽しそうでした。兄がMを頭の上に持ち上げた何度めかの時に、何を思ったかMが鴨居を掴んだのです。鴨居は、引き戸や襖のレールの役目をしている梁に取り付けてある板で、壁との間に指が入るくらいの隙間があり、掴むことが出来るのです。小さい手で意外に強い力で掴んでいるらしく、兄が下に引こうとしても離しません。すると『お、凄いな。ぶら下がれるんじゃないか?』なんて言って、兄はそ〜っと手を離しました。見事、自力でMはぶら下がっています。その時のMの表情は今でもはっきりと思い浮かべることができる位印象に残りました。何とも言えない不思議な微笑みをしたのです。彼女はぶら下がったまま “ニタニタニタ〜” っと笑ったのです。その笑いは自分の力強さに喜んで笑っている笑いでは、勿論ありませんでした。かといって恐怖に引きつった笑いでもありませんでした。今まで見たことも無い不思議な微笑みだったのです。
 兄はMを褒めたたえた後すぐに下に降ろしてあげました。するとどうでしょう、Mは大急ぎで姉(母)の元へ走り、抱きついて大声で泣き出しました。その時になって初めて私と兄はMが凄く怖がっていた事に気が付きました。
 人は何も楽しかったり、嬉しかったりする時だけ笑うのではありません。プロボクサーが試合中にパンチを食らってわざとニャッとして相手に笑顔を見せるのは大概ピンチに感じている時です。笑顔は時として、精神的にピンチを迎えた時、自分を励ます為に使うことがあります。Mのニタニタは自分を励ます為と、叔父に対する “おべっか” をつかった笑いが混ざったものだったのです。多分 “高い!高い!” の時から内心怖かったのだと思います。それで、思わず鴨居を掴んでしまったものの、今度は自力でぶら下がらされる羽目になって、怖くて怖くてしょうがなかったのです。自分を褒めてくれている叔父の気持ちを醒めさせないように笑って見せなければならず(何しろこの状況では叔父に降ろして貰わなければならないので機嫌を損ねる訳にはいかないのです)、また、自分には余裕がある “ほらっ、こんなに笑っていられるのだから、大丈夫、大丈夫!” と自分を励ます笑い。子供ながらにとっても重い役割を担った微笑みだったのでした。
 こういった意味のことを論文に書いたのですが、そのことをチラッと口にしたら、兄はやっぱりこの時のことは特別はっきりと憶えているということでした。兄だけで無く、なんと、M本人もはっきりと憶えているのだそうです。私は、私だけがこの事件を憶えていて、当事者は日常の様々な事件、事象の中に埋没して憶えていないのだろうと勝手に思っていたのですが、どうやらそうでは無かったようです。特にMは2歳くらいだったので憶えていないだろうと思ったら、意外にもはっきり憶えているということでした。
 Mは今、丁度当時の自分位の歳の子供の母親です。そう云えばどうしてこの話題になったかと云うと、このMにそっくりな元気な娘を見ていて思い出して話した話でした。たまに田舎に帰るのも面白いですね。昔の事が甦って、違う意味合いを発見をする事があります。
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by mosaiquedodeca | 2009-12-04 11:09 | フランス留学時代 | Comments(0)
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 アラブ人の学生が研究発表で、キャバンヌ教授に出ばなを挫かれて散々な目にあった話をしました。私はロジェー・ド・ラ・フレネーというフランス人の画家について発表をしたのですが、危うく二の舞になるところでした。発表の最初にド・ラ・フレネーが何年の生まれでどういう家庭に育ったかなどを話し始めたら、教授がいきなり話を中断させて「そんなことはどうでもいいから」と言い、「ロジェー・ド・ラ・フレネーとはいったい誰なんだ?」という抽象的な質問をしてきました。
 これはキャバンヌ教授の得意な台詞で、毎週木曜日に美術・デザイン関連の分野で活躍する色んなアーチストや知識人を招いてインタビューする授業があったのですが、アーチストを呼ぶといつも最初に「×××(アーチストの名前)とはいったい誰ですか?」と訊きます。私からすれば、こんなどう答えてよいか分からないような質問でも、アーチストは、考え込んだりする事も無くスラスラと澱みなく語り出します。それを見て “彼等は余程自分に自信があるのか(ナルシシストか?)、あるいは凄いおしゃべりなんだな” とあきれたり、感心したりしました。
 私は一瞬言葉に詰まって、頭が真っ白になりかけました。 “だってそれをこれから順番に話そうとしているのに…” 頭の中で組み立てていた段取りがメチャクチャになってしまいました。
 しかし、そんなこと言っても始まりません。とにかく何か言わないといけないので、適当な事をしゃべってなんとか切り抜けましたが(なにをしゃべったのか憶えていません)、危なかったです。アラブ人学生のように私も「キャバンヌを殺してやる〜!」って叫ばなければいけないところでした。
 なんとか気を取り直して自分の得意分野である造形的な話、ド・ラ・フレネーの作品の具体的な部分の説明をしてやっと教授を沈黙させることに成功しました。造形的なことの諸々については、絵画の実践者である画家(当時私は学生だったので卵)にしか言えないことがあるのです。たとえば、ド・ラ・フレネーの絵で、小さいインク瓶が何故そこに配置されているのか? それは “インク瓶の背景の白い大きな四角形が画面から前面に飛び出して来るのを押さえ込む” 為だ、などという個々の作品の細かいことは評論家には分かりません。それ程興味も持っていないでしょう。実際にデッサンを何千枚も描き、何百枚もの画面と格闘してきた人間しか問題にしない種類の事柄だからです。とにかくそういう話を始めたら、キャバンヌ教授はもう口を挟まず黙って聞いていました。けっこう細かい話をしたので、授業時間が足りなくて、最後に「来週続きをやるかい?」と聞かれ、「勿論やります」と答えたので、2週連続の発表になりました。

 こんな意地悪なこともするキャバンヌ教授ではありますが、授業はとても面白く、いろんな事を知ることが出来ました。学生を追い詰めるようなやり方をしたのは、あんまり歯ごたえの無い学生に、物を考えるきっかけを与えたかったのかも知れません。しかし、当時の私は若かったからそんなことは分からず、教授のことが嫌いだったので、ちょっとした仕返しをしたことがあります。偶然そういうチャンスに恵まれました。

 キャバンヌ教授は授業中に良く突然学生に質問をすると書きました。たまたま私に質問が来た時が、ドン・ピシャ!のとても運の良いタイミングだったのです。その日はマチスについての講義だったのですが、私はマチスが大好きで、得意中の得意でした。マチスのフォービズム時代の作品で、顔に緑の線のある肖像画 “緑のすじ(マチス夫人)” というのがあるのですが、これをスクリーンに大きく映して話をしていた教授が、誰か獲物を捜して教室を見回しました。その時どういう訳か私と目が合ってしまい、「君はこの絵についてどう思う?」と、どうせ又まともな返答がかえって来ないだろうというような顔をして(私の被害妄想かもしれませんが)言ったのです。他の画家の作品ならきっと私は何も言えなくてしどろもどろになったでしょうが、この時は違いました。私はここぞとばかりに、鮮やかな緑の線(額から鼻筋、唇、顎まで、顔の真ん中を縦に通る)が、何故リアリティーを持って見えるのか? それは、明暗では無く暖色と寒色の対比で光と陰を表す表現方法を取っているからであること。その大胆な表現を可能にしているのは、実は真っ黒に塗られた髪の毛の強さと首の後ろの暗がりの表現である事などを蕩々と述べたのでした。キャバンヌ教授は最初はちょっとあっけにとられたような顔をしていましたが、次第に満足そうな表情に変わりました。私はしてやったりで、 “見たかキャバンヌ、あんまり人をあなどるなよ!” というような気持ちでした。
 しかし、これだけでは教授に自分を認めさせただけで、仕返しにはなりません。それをしたのはその後のことです。授業が終わって廊下で友人たちとたむろしていたら、教室から出て来た教授が私を見付け、近づいて来てこう言ったのです。「君の名前は何て言うんだい?」
 名前を訊かれたのです。これは実は美術学校の学生にとっては大変名誉なことなのです。ピエール・キャバンヌといえば美術界で名前を知らぬ者はいない高名な評論家です。例えば、TVなどでピカソやマルセル・デュッシャンについての特集番組をやっていたとすると、ゲストで出て来て、例のスーツを着て胸ポケットに絹のハンカチを覗かせて(教壇と同じ恰好で)解説をしたりする人なのです(注1)。彼が名前を訊くという事はどういう事かと云うと、つまり “君の名前を憶えておくよ。将来君が個展をやったら見に行くかも知れない。場合によっては評論を書くかも知れない” といったような意味合いなのです。
 その時私は平然とこう返したのでした。「どうして?」 するとキャバンヌ教授は少しバツが悪そうに肩をすぼめて「なんとなくさ」と答えました。私がすぐに自分の名前を言えばおかしな雰囲気にならなかったのですが、 “おれの名前を訊く意味が分からない” というような怪訝な顔で聞き返したので、教授は少しうろたえた感じで愛想笑いのような微妙な笑顔をしたのです。その一瞬だけ教授と私の立場は逆転して、一介の学生にすぎない私の方が優位に立ったのでした。(偉そうに)名前を尋ねた教授の立場が崩れた瞬間でした。
 私は “オレはアンタにへつらう気はないよ” というようなつもりでわざと聞き返したのでは無くとっさに言ってしまったのですが、一部の学生から怖れられ、嫌われていた教授に一矢報いたようなことになってその時はとても気分が良かったです。
 でも、素直に自分の名前を答えていたらいい事があったかも知れませんね。パリ市内の小さな画廊で個展をした時見に来てくれたかも……。もっとも、卒業後、フランスで作家活動をすることは無く帰国したのでどの道関係なかったですが。

注1;ピエール・キャバンヌは、「ピカソの世紀」という20世紀美術について書いた本や、マルセル・デュッシャンにロングインタビューをした本などで有名な美術評論家です。

※ このページの上の絵はロジェー・ド・ラ・フレネーの作品。
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by mosaiquedodeca | 2009-09-16 20:30 | フランス留学時代 | Comments(0)
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 私は20代の半分以上、7年弱の間フランスで過ごしました。美術学校に留学していたのですが、そのうちの5年間はパリの装飾美術学校に通ってました。正式には「エコール・ナショナル・シュペリオール・デ・ザール・デコラチフ」という長い名前の学校ですが通称「アール・デコ」と呼ばれていました。この学校は非常に自由な雰囲気の学校で、左翼系の教授が多く、ホモとコミュニストの巣窟だなんて言う人もいました。確かに同じクラスにホモセクシャルの男が2人程いました。1人は本当にそうらしかったのですが、もう1人は、本当はよく分かりませんでした。しかし、自分ではそう言っており、おおっぴらにしていました。私はその学生とは割合仲が良く、冗談でお互いをののしりあったりしました。彼が、私のことを、“黄色いネズミ”(黄色人種であることを揶揄して)と呼ぶので、私は彼のことを “汚いホモ野郎” とののしってあげました。こういう冗談だけでなく、何でもあけすけに言える雰囲気がありましたので、私も思ったことを誰にでも遠慮せずに口に出していました。
 実習時間はいつも色んな学生とおしゃべりばっかりしていてあんまり作業はしませんでした。それどころか、教室を抜け出して他の実習室で作業をしている友達の所へ行って話をする事もありました。そこの教授も別に咎めることも無かったのです。私としては、そこで色んな話をすることで考えをまとめて実際の作品作りは夜部屋に帰ってからやったほうが、落ち着いて出来るので良かったのです。自分にとってはおしゃべりが一番勉強になりました。
 「ピカソの世紀—キュビズム誕生から変容の時代へ1881〜1937」という本を書いたピエール・キャバンヌという教授が “20世紀美術” という講座をやっていました。ある時、私の友人とその彼女がモグリでその授業を聞きに来たら、キャバンヌ教授は2人を見付けるなり『君等は誰だ?』と訊きました。しかし、「見学です」と答えたら、「あっ、そう」と言っただけで、そのまま授業を始めました。追い出すかと思いきや、逆に外部からわざわざ授業を聞きに来る人間がいるということで何だか誇らしげですらありました。
 この教授はキチンとアイロン掛けをしたスーツを着、胸ポケットにはいつもカラフルなハンカチ(絹らしき材質の)を覗かせて、かなりお洒落な(キザな?)恰好をしていました。そして時々教壇の真ん前の、学生が遠慮して座らない机に片尻座りなんかしたりして、見ぶり手振りを交えて芝居がかった授業をしました。彼は、篭った声でモゴモゴしゃべるのですが、それはリズミカルで時々語尾が跳ね上がる独特のしゃべり方でした。ちょうど、水中から泡ぶくがぼこぼこ沸いてくるような感じで、私たち学生はよく陰で口まねをして遊びました。
 キャバンヌ教授は時々授業の途中で教室を見回して目が合った学生に「君はどう思う?」と、問いかけるのでした。大体の学生はあんまりまともに答えられないのですが、それをちょっと小バカにしたような態度を取るのでした。しかし、教授としては多分なんとか学生の感心を惹こうとして苦心してのじゃないかと、今になってみれば思います。けれど当時の私はそんな事は考えず、感じの悪い人だと思っていました。教授は特に外国人が嫌いなようで、フランス語が堪能でない人をバカにする傾向がありました。
 この「20世紀美術」という授業は学生が研究発表をする課題があって、その善し悪しで成績が決定しました。単位を取得するには誰か一人のアーチストを選んで、資料を集め、その作品について弁じなければなりませんでした。
 クラスメートの1人、アラブ人(どこの国かは忘れました)が研究発表をした時のことです。彼が選んだのは絵画科の教授でもあったジョルジュ・ロネー(画家)でした。彼が教壇の前に立って資料を出して話し始めた途端、キャバンヌ教授は矢継ぎ早に質問をして立ち往生させてしまいました。突然のことに彼は何も答えられずに絶句したまま、弁慶のようにその場で息絶えました(無言の彼は本当にそんな感じでした)。そのまま発表は中断(始まってもいないのに)し、教授は “これだから、外国人は嫌だ。だいたいフランス語もまともに話せないじゃないか” といったような態度で、あきれたような顔をしていました。
 授業が終わって絵画の実習室に戻ってきてからの、そのクラスメートの様子ったら大変でした。荒れ狂って大声で叫びまくっていました。「キャバンヌを殺してやる〜!」なんてことまで口にしていました。その様子はとても可笑しかったのですが、 “Je vais le tuer!” と何度も吠えている彼を見ていると、本当に殺しかねない迫力がありました(勿論冗談に決まってますが、叫ばなければ気持ちが収まらなかったのでしょう)。彼の気持ちはよ〜くわかりましたが、彼にも落ち度はあります。正直 “なんてバカなことをしたんだろう” と思いました。だって、キャバンヌ教授の前でロネーさんについて述べようなんて、釈迦に説法をするようなものだからです。教授がロネーさんの画集の解説の文章を書いているのを知らなかったのでしょうか?(私はその画集を持っていて、ロネーさんにサインをしてもらっています)。キャバンヌ教授としては、皆の知っているロネー教授について語るのであれば少なくとも “自分の書いたロネーに関する記述以外の事について話して欲しい。自分の文章の要約を発表されても意味ないじゃないか” という事なのでした。
 この授業の研究発表をずっと見ていて思った事があります。フランス人は自分の知っていることのついては結構うるさいですが、知らない事については非常のに素直になります。例えばブラジル人の学生が自国の画家について発表した時など、大して面白い発表でも無く、フランス語がそれほど堪能で無いので説明もつたなかったにも拘らず、キャバンヌ教授はずう〜っと大人しく聞いていて、最後に「とても良かった!(知らない事を教えてくれて)ありがとう」と、褒めていました。キャバンヌ教授に限らず、他の教授も学生も、外国の事(異文化)にとても興味を持っていて、何でもないような些細な事でも大袈裟に感心し、とてもリスペクトしてくれました。それは未知の新しい事についても同じで、誰もやった事の無い事に挑戦する人には実に寛容で、うまく行かなくても決して非難するようなことはしませんでした。いわゆる “新取の気質” を持っているように思いました。
 ところで、実は私もこのアラブ人の学生のように、自分の研究発表の時に少し失敗しかけました。私もフランス人の画家、ロジェー・ド・ラ・フレネーについて発表したのですが、当然、キャバンヌもよく知っている画家でした。(日本では全く知られていませんが、ピカソやブラックと同年代でキュービストでもありました。残念ながら第一次世界大戦の負傷が元で若死にをしました。)
 
                      キャバンヌ教授2に続く

※ このページの上のイラストは、学生時代の小さな手の平サイズのクロッキー帳をめくっていたら出て来た1ページです。上3点は当時のクラスメイトの一人が描いたもの。右上が私を描いた似顔絵。一番下の描きかけのデッサンは私が(誰か憶えていない)クラスメートの一人を描いたもの。 
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by mosaiquedodeca | 2009-09-08 17:48 | フランス留学時代 | Comments(2)

フレスコ画

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 以前、ウェルカムボードの制作について書いた記事(7月18日:続・ウェルカムボード)でフレスコ画について触れました。今日はそのフレスコ画の事を少し書きます。
 私は20代の半分以上フランスに留学していました。1975年春に渡仏し、パリの国立高等装飾美術学校という所に1976年から1981年まで5年間在籍しました。そこの専門課程でガラスモザイクやテンペラ画などを勉強しました。当時の教授はジャック・デピエールという人で、画家にして壁画家でもあった人です。私は20代でしたが、彼はもう60代後半でお爺ちゃんという感じでした。この先生には結構可愛がっていただきました。日本人学生は2人居たのですが、2人共とても勤勉で(自分で言うのもナンですが)沢山作品を作っていました。それでとても気に入られていて、随分えこひいきもしてもらいました。フランス人の面白いところは、あんまり規則に縛られないで、自己判断で融通を利かす所です。ある時、壁画の部屋で何人かで油絵を描いていて、キャンバスを広げたままにしていたのですが、デピエール教授が部屋に入って来るなり、「何だこれは!早くかたづけろ!」と怒鳴りました。フランス人の学生が怒られています。“ヤバい、俺も怒られる…”と、びくついていたら、私の方に来て耳元でそっと「君はいいからね」って言うのです。“ええっ!俺はいいのオ?” 私はいつも部屋にいて描いているので、それはOKだったみたいです。そう云えば、怒られた彼はキャンバスを出しっ放しにして、週に一度くらいしか教室に来ていなかったのです。デピエール教授に限らず、他の教授も秘書課のおばさんも、はたまた校長先生までも、勤勉な学生にはとても協力的に接してくれました。相談するとだいたい何でも融通を利かせてくれました。まっ、それにはちょっとしたコツがあるのですが、それはヒミツにしておきましょう。
 話が脱線しましたが、そのデピエール教授にフレスコ画を教わりました。

 フレスコ画は消石灰と砂を練り合わせたモルタルを石やコンクリート等の壁に塗り、壁がモルタルの水分を吸ってモルタルが締まってから、乾燥し始める迄の数時間内に顔料(絵の具の粉:無機質の土や金属の粉)を水で溶いて描く絵画技法です。石灰は乾く前に表面に透明な薄い膜を張ります。その透明な雲母のような膜の中に顔料が閉じ込められて絵が定着するという仕組みです。(※1)従って、乾き始めたらもう絵は描けません。描いても定着せず、後で水をかけると落ちてしまいます。実際に時間を超過して描いた絵の上に、乾いた後、デピエール教授から水をかけられて落とされた事があります。フレスコ画の最大の特徴は石(石灰と砂)の壁そのものが絵になることです。壁の中に絵が閉じ込められるのです。壁の表面に絵の具が付着しているという感じとは違って、言うなれば、絵が石化していることです。ポンペイの壁画、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井画などはこの技法で描かれています。

 壁画の部屋にはコンクリートの大きな壁が何面かあって、そこに毎年学生がフレスコ画を描きます。何年かすると、新しい学生の絵に取って替えられるという事になっていました。私達の学年も前の絵を掻き落として描きました。対になった面を片方は「戦争」で片方は「平和」という題名で描きました。それが下の作品です。何人かで分担して描きました。私は主として女体のいる画面を担当しました。(※2)
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 実はこの消石灰の、同じ性質を利用した絵画技法は日本にもあります。“伊豆の長八美術館”で知られる、漆喰(しっくい)に顔料を練り込んで絵を描く左官技術のひとつ、“鏝絵(こてえ)”がそうです。現代では久住章という名人が居ます。(私も以前、同じ現場で仕事をした事があり、色々な事を教えて頂きました。オープンマインドの素晴らしい方です。)因みに、漆喰とは消石灰の事です。“せっかい”と“しっくい”音が類似して居ますね。同じ語源らしいということが想像出来、関連性が分かります。

 消石灰はホームセンターなどで売っていますが(畑用に)、それは使いません。私は生石灰から作っています。石ころ状の生石灰を熱に強い容器の底に並べて水をたっぷり加えます。するとしばらくして、水の中から泡がぶくぶく沸いて来て、お湯が沸騰したような状態になります。科学反応が起こっているのです。容器が深くないと周りに飛び散る位の強い反応で、かなりの熱が出ます。沸いてくる泡は二酸化炭素なので毒性はありません。やがて反応が収束しますが、それで直ぐに使える消石灰は出来ません。それから、常に水を張った状態で半年程待ってやっと使えるようになります。半年くらい水に浸けっぱなしにしないと、反応が完全には終わらないからです(デピエール教授の説明)。私はこれで失敗した事があります。描いたフレスコ画の表面が散弾銃を浴びたように穴が空きました。どうやら細かい生石灰の粒が未反応のままで残っていたようで、それらが弾けてしまったのです。それは下の作品です。

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       所々に白い斑点がありますが、これが石灰の弾けた部分です。

 この絵は、学校でフレスコ画を習った後に、一緒に制作したフランス人の学生がパリの郊外のベルサイユに(ベルサイユ宮殿のあるベルサイユです)一軒家を持っていて、(※3)夏休みにそこの屋外にある蔦の絡まる塀にフレスコ画を描かないか?と誘ってくれて描いた絵です。しかし、私達は準備を充分にはしなかったのです。生石灰から消石灰を作ったのですが、時間が無くて、半年待つことが出来ませんでした。それでこのような結果になりました。やはりデピエール教授の言ってたことは本当だったのです。

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※ 1 絵の具の粉はそのままでは粉なので風が吹けば散らかってしまいます。どんな絵画技法でも、絵の具の粉を定着させる溶剤が使われています。その溶剤の事をメディウムと言いますが、油絵の場合は松ヤニや琥珀などの木の樹脂です。アクリル画はその名の通りアクリルで、ガッシュや水彩絵の具はアラビアゴムが主です。テンペラ画は知らない人はビックリしますが、なんと、卵の黄身であったり、白身であったりします(私は黄身しか使ったことはありませんが)。フレスコの場合はそのメディウムの役割をするのが、石灰の表面の“透明な石”のような膜なのです。

※ 2 当初、戦争の画面に私達は、最も戦争を象徴するナチスの鍵十字をアレンジした図柄を配しました。するとデピエール教授は部屋に入ってくるなり、とても辛そうで、しかも申し訳なさそうに、「悪いんだが、このマークは止めてくれないか。どんな理由でどんな場面でもこのマークだけは二度と見たく無いんだ」とおっしゃいました。私達は(フランス人も日本人も)戦後生まれの世代だったので、その痛みが実感出来ていない事に気付かされたのでした。勿論、直ぐに消して違う絵にしました。

※ 3 余談ですが、その家は彼が言うところによると、太陽王ルイ14世の狩りの為の小屋だったそうです。歴史のある町にはこのような事柄が落ちていますね。
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by mosaiquedodeca | 2009-08-09 22:35 | フランス留学時代 | Comments(0)

 私は20代の時に6〜7年フランスに留学していました。中西部のブザンソンという町で語学を学んだ後、最初に行ったのが、ピーター・メイルの小説でブームが起き今では世界中の人々のあこがれの地となった、南仏プロヴァンスにあるアヴィニョンという町の美術学校でした。ここですっかりプロヴァンスの虜になってしまって、パリの学校に進学してからも、夏休みになると車を持っている友達と一緒にヴァカンスに出掛けました。貧乏学生だった自分達がヴァカンスなんて優雅と思われるかも知れませんが、実はエクサンプロヴァンス(画家ポール・セザンヌが生まれ、制作に没頭した町)に何人か友達が居て、彼等のアパートに居候して毎日自炊をして過ごしたので、お金はそんなに掛からなかったのです。5〜6人で毎日交替で得意料理を披露しあって食べたり、今日はセザンヌのアトリエを見に行こう、明日はピカソの住んでいた城を見に行こう、あさってはマチスのヴァンスにある教会に行こう………等と、考えることは何を食べるかと何処へ遊びに行こうかという事ばかり。
彼女こそいなかったですが、おそらく人生の中で一番楽しい時代じゃなかったかと思います。
 車で南仏に行く途中はいつもルンルンで、長い道中なので日本の歌のヒットパレードを繰り広げたりしました。次から次に歌っていって詰まってくると、テーマをいろいろ変えて歌ったりしました。面白かったのは暗い歌シリーズで、「昭和枯れススキ」、「フランシーヌの場合」、「赤色エレジー」、「再会」、あるいは浅川マキの歌、などなど思いっきり暗く熱唱したのを憶えています。そんな風に時間を過ごして、やがてリヨンを通過してしばらく走っていると窓の外からある匂いがして来ます。道端に自生しているタイムが香るのです。そうすると「ああ、プロヴァンスに来たー!」という感じがして、気持ちが高揚しました。私達にとってプロヴァンスはタイムの香る地だったのです。そしてその香りもマヒしてあまり感じなくなった頃に、エクサンプロヴァンスの郊外のインターチェンジにたどり着くのでした。
 昔話をしましたが今日の話の本題はここからです。この高速のインターチェンジのところから不思議な建物が見えます。大きな四角の中に円があるものがいくつも並んでいるのです。これはフォンダション・ヴァザルリという建物で、ヴィクトール・ヴァザルリという作家の美術館です。上の写真はこのヴァザルリの作品です。ヴァザルリは、Op・Art(オプチック・アート:視覚的な錯覚を利用した芸術表現)の先駆者的な作家で、その代表的な作品は写真のように、色の付いた幾何学的な形態の集積で出来ていて、その形と色を規則的に少しずつ変化させることによって様々な立体や空間の錯覚を起こさせるというものです。彼はこういった作品を山ほど作っています。このヴァザルリの手法は、私にも視覚的表現の可能性を広げてくれました。以前セメント会社の生コンのプラントを覆うパネルに絵を描いて欲しいという依頼があった時に大いに役に立ちました。生コンの機械や装置が近隣の美観を損なうということで、それを隠すためのパネルですが、それだけでは殺風景なので絵を描いて欲しいということだったのです。美観を守るための絵であると同時に会社のイメージアップに繋がるようなものでなければなりません。具象的な絵では余程のもので無い限り主張が強すぎて邪魔になります。かといって唯の模様では会社のイメージの向上に繋がりません。しかし、地域の人の気持ちを和ませ、邪魔にならない絵などそうそうあるものではありません。私のところに依頼が来た時には既にいくつかの案が却下された後だったのでした。そこで随分悩んだ末、思い出したのがヴァザルリだったのです。彼の手法を踏襲して、4角形を斜めに分割した3角形だけの集積で気球が浮かんでいるように見えるものにしたのです。これは中々うまく行って、生コン会社の社長さんにとても喜んで頂きました。
 ところで、ガラスモザイク教室の生徒さんの一人であるM・Eさんが、貝をモチーフに作品を作っています。巻貝を真横から見た図柄なのですが、貝を立体的に表現するにはどうしたら良いかという時に、やはりヴァザルリの手法が役にたっています。四角い模様が付いているのですが、その四角を中央部を大きく、端にいくに従って細くすると真ん中が膨らんで立体的に見えるのです。もっとも、貝は横から見ると実際にもそういう風になっているので、見た通りでもあるのですが。
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by mosaiquedodeca | 2008-09-18 12:40 | フランス留学時代 | Comments(0)